こんにちは。体調が悪くてご報告が遅くなりましたが、この度家族募集中だった琴里の終の棲家が決まったのです。応援してくださった皆さまありがとうございました。
昨日の朝、琴里のステイ先である川崎市のとろろさんちへ
高速道路が空いていたおかげで703号室からさほど距離を感じませんでした。
眺めがよくて素敵なお宅! 正直なところ、保護動物の環境って大切ですよね。ゴージャスじゃなくてもいいけれど「清潔」であることは必須だと思います。
人見知りして隠れてしまわないよう、ケージに入ってもらった主役さん
やあ。ことちゃん、がんばろう^^
「わたしのお茶会ですか?」
そうだよ。幸せになってもらいたいから、つい気合いが入ってしまうね。
猫ドア発見♪
可憐なお花に心がほっこりします。
とろろさん、ランチごちそうさまでした。
いろいろな方と会った1日。合間の30分間は充電器にささった状態です。
見苦しい姿を失礼っ
充電完了後はムクっと起き上がって……
里親さんにちゅーるをもらう琴里
おいしいねえ。ちゅーるを発明した人は本当にすごいです。
ファンに囲まれたアイドル状態の琴里
テーブルに座っていただいて、ゆっくりとお話をさせていただきました。
琴里は責任感のあるあたたかいご夫婦の元へお輿入れします。
里親さんちは偶然にも我が家から近いのです。ご近所さんはなんとなく安心できますよね。現在脱走防止対策を含め、いろいろとご準備くださっているので、終わり次第のお届けとなりました。
譲渡責任者の私ももちろんいっしょに行きます。
とろろさんお疲れさまでした。おみやげありがとうございました。
琴里はやさしいとろろさんに保護され、恵まれた環境で「保護猫生活」を送りました。
まだ怖がりで馴れるまでに時間がかかる琴里ですが、里親さんはじっくりと向き合ってくださるそうです。猫を通じていい出会いをさせてもらえて感謝です。
美しい琴里、おめでとう。私もうれしかったよ。辛いノラ猫時代を生き延びてよかったね。
私が手掛けた譲渡なので、ぜひ、琴里の新居の紹介もブログでさせてくださいね。
最後に改めて自分の方向性を少し書かせてください。
私は小さな命のために自己犠牲を払っているたいそうな人間ではありません。
第一、保護犬猫たちは私にとって「小さな命」ではありません。
小さいのは彼らの身体のサイズであって、命は小さくない。たいへんデッカい命です。
細かいようですが、ここだけは日本語をはっきりとさせておきたいです。
小さな命のために!!、という文言は私の辞書の中にはありません。
私は、たいへんデッカい命に日々学ばせてもらっています。
たいへんデッカい命なので、牛歩ながらも一頭一頭のご縁結びを丁寧にしていきたいです。
彼らは「束」ではなく「個」であり、私が絶えずフォーカスしたいのは「束の彼らの不幸」ではなく、「個の彼らの幸福」です。ぜんぜんちがいますよね?
「保護」を謳えば多額のお金や過度の賞賛やたくさんの免罪符が得られる昨今を、私はやるせない思いで生きています。人は人、自分は自分と完全に割り切るのがむずかしい。どうしてむずかしいのか、なにが原因なのか、自分の感情が私憤か公憤かを幾度となく考えました。考えて考えて考えました。結果、ゼロか100かでなはいにせよ、やはり私はやり場のない「公憤」を感じていることに気づいています。犬猫たちは庇護を必要とする生き物なので、正しい管理と確かな知識が不可欠です。そして、搾取をせずとも彼らは大きなものを与えてくれる存在ではないでしょうか?
私はデッカい命に向き合っていけるたくましさと強さがほしいです。
18年前からコツコツと保護譲渡活動をしてきたのですが、「原則、自分にできる範囲の中で」というポリシーがあるため、皆さまから見たら歯がゆいほど細々としたものでしょう。にもかかわらず、こんな私を応援してくださる方がいて、至福の限りです。
これからも同じスタイルで皆さまは飽き飽きかもしれませんが、保護動物たちの悲鳴だけを拾って局所的にアピールするのは私にはできないので、「保護動物たちの確かな幸せが重要」という方に向けてなるべく透明感を出していきますね。どうぞよろしくお願いします。
LOVE
ペットシッター「にくきゅうのおせわ屋」をはじめました
お留守番をがんばるかわいい家族が「お帰り!」と目を輝かせて出迎えてくれるよう、安心・安全に最優先で心を込めてお世話します。
足立区・荒川区・文京区を中心に活動してますが地域のご相談やお世話内容など、
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琴里ちゃん良縁おめでとうございます。
今回の文章を拝読してすっきりしました。いつも犬や猫の命を「小さい命」という文章に出くわす度、違和感を持っていました。体が小さいから命も小さいと表現するからなのか、何かと比較して小さいと表現するのか分からないけれど人間と比較して小さい命と言うのかなと思い、見かける度に嫌な気持ちがしていました。小さい命・儚い命と表現するのは可哀そうでしょ?哀れでしょ?だから同情してと言いたいのかなとも思っていました。命に小さいも大きいもないと思っているし、生きている事の重要性を大きさで表現されると嫌な気持ちがします。動物の命を「小さい命」と表現する愛護団体とかマスコミを見かけるとあぁ成程どこまでも上からでやってあげている感が凄いと思っていました。小さい命を守る大きい命の自分が大好きな人なんだなと思っています。
豆様
同感です。本当に昔から「小さな命」と書く方々にアレルギーを感じていました。
小さいのは命ではなく身体ですよね? 最近は特に疑問に思う方々が大勢いて、だれを信じたらいいのかわからなくて気持ちが萎えています。
極端に虐待をしていないとしても、雑な扱い方やお金集めに見ていて気持ちが沈むのです。
自分だけはちゃんとやろうと思っていますが、精神的なバランスを崩しがちになってしまいます。
心身ともに健康で小さな身体のデッカイ命の犬猫たちと向かい合っていきたいです。