“祈りと行動”と“祈りのみ”のちがいについて


メイちゃんチビ太くんのママさん、いつもプレゼントありがとうございます。爪とぎは大人気。ほかにも我が家に必要なものばかり……助かります。

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皆さまこんばんは。今日は自慢とうんちくです。

 

 

さぶの具合がとても悪かったとき、私はチチを誘いパワースポットへ。藁にもすがりたくて、ふたりで「703号室」のお祓いをしてもらいました。

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私はこのパワースポットにご利益を感じます。だから心を鎮めたいとき、悲しいことが起きたとき、つまり苦難の際には必ず訪れています。お願いばかりでなく、たまにお礼にも伺っています。護ってくださりありがとうございます、と。

 

 

しかし日本にはいろんな方がいます。

 

 

それぞれの世界観、政治観、宗教観があるので私は敢えてその辺に触れるのを避けています。私はどちらかというと「根拠」を追求するタイプ。昔はぜんぶフィーリングで生きていました。でも加齢とともに変化する訓練をしています。

 

 

先日保護活動関連の内容の打ち合わせでお会いした方に、私は理系の思考だと言われました。そうなのかな? 実は私はどちらかというと文系ですけど。

 

 

そしてたまに他の方から私は非現実的なものを一切信じない風に映るようです。

 

 

事実私は動物病院の先生方にも必ず「数値」で示してもらうようにします。

 

 

選択肢とそのメリット、デメリット、それぞれの成功とリスクのパーセンテージ。先生方から開示していただいた情報の中で自分で選択をしたいのです。

 

 

私は自分の人生に責任を持ちたいです。人のせいにしたくありません。極力社会や隣人が悪いと思いたくありません。人を一括りにもしたくありません。

 

 

好き嫌いや損得だけを考えて生きていければ楽でしょう。でも縁のほうが私には重要です。縁こそ目に見えませんが私は縁を信じています。加えて「祈る」気持ちを持っています。常に祈っています。

 

 

ただ、祈るだけで終わりたくはないのです。

 

 

不遇な犬猫を憐れみ、明るい未来を夢見る方は多い。

 

 

つい、善意の心で応援の意を込めだれかに発してしまうひと言

 

 

「何もできませんが、祈っています」

 

 

ですがこの言葉にいったいどんな意味と効力があるのでしょう?

 

 

私は行動こそがすべてだと考えています。行動の大小は関係ありません。行動を起こすかどうかのみです。一頭の犬猫の里親になる、それは最高の行動です。

 

 

たとえば、学業をおろそかにし、受験勉強を一瞬たりともせずに、合格祈願だけ行ったところでどうにかなるのでしょうか? 希望校にすんなり受かるものですか?

 

 

不遇な犬猫たちのために祈るのは純粋かつプラスの感情。私も絶えず祈っています。しかし私は自分なりに行動し、努力をした上で願掛けをしたいです。

 

 

もし、不遇な犬猫の問題を改善しようと思ったら、祈るのと同時に、ご自身にできるアクションを起こしていただければ、もっとたくさんの命が救われます。

 

 

私は善人ではありませんが、自分の理想の社会に向け、小さな一歩を踏み出したい。その位の勇気と信念は持って生まれてきたと自負しています。

 

 

最近の我が家のほっこりシーン

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さぶとほほのラブラブぶりは異常です。うー! お母さんも仲間に入れて~!

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ほほは10歳。さぶはシニアですが年齢不詳

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どちらが年上かはわかりませんが、703号室歴は断然ほほのほうが長い

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だからほほは、薄毛で病み上がりのさぶの面倒を見ています。

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シリンジでごはんをあげているとどうしてもさぶの顔まわりが汚れてしまう。

 

 

それをほほが丁寧に舐めてあげるのです。

 

 

もしかすると、さぶの顔についた残飯を狙っているだけかもしれません(笑)。

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だけど動機はどっちでもいいですよね。

 

 

ほほは満足げで、さぶは幸せそうです。

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面倒を見るほうも見られるほうも、いい顔をしています。

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ほほもさぶも外で困っていた元野良猫。

 

 

私が保護しなければ、ほほもさぶもみすぼらしい姿で寒空を彷徨い、重い持病の彼らはまちがいなく短命でした。路地裏でひっそり死んでいたでしょう。けれど私の行動によって、彼らは今、互いを抱き合い、穏やかな表情で寝ています。

 

 

「ぼくもだよ」

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そうだね。あまぱんはお母さんの腕枕で眠っているんだもんね。

 

 

一頭でもいいんです。

 

 

直接保護することに躊躇するなら里親になる選択肢もあります。

 

 

そしてすでにそうされている方には深いリスペクトを!

 

 

家に入れる犬猫たちが一頭でも増えることを願って!

 

 

LOVE

 

 

ペットシッター「にくきゅうのおせわ屋」をはじめました

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19件のコメント

  • H

    こんばんは。

    「祈り」について、個人的に思う事をすこし書かせていただきます。

    私は経験上思うことがあって祈らない事に決めています。
    でも、神仏はもとより不思議な力を否定するつもりは
    毛頭ありません。神仏に対して敬う気持ちは持ち合わせています。
    ですが
    将来、私の身近な家族や我が家の猫に何かあった場合
    祈ると思います。祈らずにいられないとも思います。

    私が思う「祈り」とは全身全霊出来る事なら
    わが身を捧げる事もいとわないのでどうぞご加護を。
    が、「祈り」。
    祈る、をどうとらえるかどう表現するかで
    受け取り方も違うのかな、と思いました。

    A)
    道端でさまよう猫をみかけるたび
    (わが身を捧げることもいとわず、とまでは
    いかずとも)
    本当の本気でどうかどうか誰か
    この猫の困窮に気づき救ってください。
    私は事情がありどうしても何もできません。
    祈ることしかできません。
    この子をどうか救ってください。

    B)
    道端でさまよう猫をみかけるたび
    「どうか素敵な飼い主が現れますように」
    「せめてお腹を空かせませんように」
    ちくんと胸がいたみ、祈らずにいられない。

    A・Bどういった「祈り方」なのか。
    Aのほうが真剣っぽいです。
    Aに比べるとBはまるで
    祈りというよりお星さまへのおねがいのようです。
    ですが、
    もしかしたら
    なんらかの1歩を踏み出すのはBの人かもしれない。
    Aであっても、何かできそうな機会に
    足がすくんで1歩も踏み出せないかもしれない。
    いや、通常AはもとよりBでもなく
    でも、たまたま子猫をひろって
    一緒に暮らす事をえらぶひとがいるかもしれない。

    弱き他者に対して真剣に祈る事ができる人は
    やさしい人だと思います。
    人には様々な事情がありますので
    行動できない理由もあるかと思います。
    本当は行動したいのに。

    今回のアンニイさんの言葉は
    そんな人の心を傷つける、ような
    不用意な言葉ではなかったように
    私は個人的に思います。
    ただ、
    本気の本気で祈るやさしさがあれば
    本当は行動したいという気持ちも
    少なからずあるかと思いますので
    祈るしか出来ないでいる歯がゆさ
    「図星」で気持ちに刺さる、
    という部分もあったのかな、と思いました。

    いえいえ、私は祈る事こそが出来る全てです。
    それ以上でもそれ以下でもなく、
    という事でしたらそれはそれで
    自信を持って祈れば良いと思いますし・・・・

    小さな猫ですが、保護し家族を見つける
    という事は本当にパワーがいる事です。
    (私はほんの数回しか経験がありませんが)

    常日頃から活動せずとも。
    日頃は心で願うだけでも。
    保護活動者の方のように捕獲箱を使い
    人慣れ訓練から、とまではいかずとも。
    もし
    足元にお腹を空かせてすり寄る猫がいたら
    手を差し伸べ将来について手伝える事は
    自分に出来る事はないかと真剣に考えて行動する。
    そのくらいの心構えはというか気概は
    日頃は祈り担当であってもシュミレーションしておく、
    というのはいかがでしょうか。
    猫のために何かしたい、という方が
    少なくとも出来るタイミングにスムーズに
    行動するためには心の中で備えておけば
    より行動に移しやすいように思います。

    「祈るだけでなく行動すべき」。

    心の中で返せるはずです。
    「うん。
    私もチャンスが来たらきっと行動に移そう」。
    どの猫もかわいい。
    どの猫にもひとしく幸せになるべき。
    でも。出来る事から、出来ることをの
    取捨選択は決して悪ではないと思います。
    そっと踏み出す1歩ならなおのこと。

    なんだか
    とりとめのない長文でごめんなさい。

    • 匿名

      Hさま

      ご意見たった今拝見しました。
      「祈りも行動に入れて」とアンニイさんに
      無理強いしている匿名と申します(笑)

      Hさまのご意見、仰ること実によくわかります。
      とくに、アンニイさんの言葉が人の心を傷つけるような
      不用意なものではなかったけれど(傷ついた人間がいるとすれば)
      祈るしかできないでいる(自分への)歯痒さを図星にされて
      気持ちに突き刺さる部分があったかもしれない、の部分。

      そうなんです! 心を込めて祈っている人たちの中には
      自分自身が今ひとつ行動に踏み切れない歯痒さや引け目があって
      「ダメ!」とハッキリ言われれると怯んでしまう。
      100%その通り、ご明察だと思います。

      個人的にそういう人たちを切り捨てないで欲しいと思うのです。
      そういう優しい気持ちがいつか花開くときが来ると信じて。
      動物に優しくできるアンニイさんならそれができるし
      そうすることで行動する仲間が増えると思うのです、
      たとえ気の遠くなるような時間がかかったとしても。

      ついさっき「これで最後のコメ」をアップしたばかりなのに
      また書いてしまいました。ごめんなさい。これで本当に最後です。

    • anny703

      Hさま
      仰る通りです。今この瞬間も犬も猫も死んでいます。でも行動を起こせずにいる人もいます。そういう方を私は否定しません。私自身もかつては「はじめの一歩」がありました。そのころのフレッシュさは今も忘れていません。そして私の地元にはきっと困っている子たちがまだ仰山います。私は怖くてできれば出会いたくないと考えています。出会ってしまったら何かしら行動を起こさなければ気が済まない性格だからです。
      むしろ「わたしの周りにだれも不幸な猫が寄ってきませんように」と祈っています(苦笑)。
      できない、やりたくない、誰かほかの人がやるべきだ、との垣根を作ってただ「祈っています」という言葉で自分を飾るのは正直少しうんざりします。そういう方をたくさん見てきたんです。すべての方がそうだとは言いませんし、それぞれの家庭環境もあるでしょう。うちは同居はしていませんが私の母が保護活動をする私が嫌いで、何年も何年も争いが絶えませんでした。邪魔をされたこともありました。
      でも私の母は今、私を心から応援してくれています。だから大なり小なりできない理由がそれぞれにあるのは私にはよくわかります。でもずるいなあとも思うのです。フレッシュな方はいいんです。これからの一歩を踏み出す勇気を持とうとしている祈りの場合は清々しさを感じます。
      でも物理的にも体力的にも恵まれているのに、何年も何年も「何もできませんが祈っています」はないだろうと思うわけです。きつい言い方ですね。ごめんなさい。
      そういう人を私はかっこいいとは思いません。なぜならば保身をとても感じるからです。保身をすべて否定しているわけではありません。私も時と場合によっては保身に走ります。でも保身をしながら「善人」でいたい人からのお茶のお誘いはぜひ断りたいと思います。
      そして何かアクションをしたいけれど、身の丈に合うアクションがわからないという方のアドバイスは可能な限り何時間でもいたします。
      糞拾いでもなんでも、なんでもいいからやってしまえ! です。
      ちなみに豆様のコメントにあった「糞拾い」は私もやっています。野良猫が私の地元でこれ以上嫌われたら大変だから。
      H様の言うように、毎日行動する必要はありません。行動を予想してノウハウを調べて、そしていつか実行すればいいんだと思います。

  • ハハ様やemiーgoさんを見て、私が最初に自分にでも出来る事をしたのは、外にある猫や犬の糞を拾う事です。
    犬と暮らしていて猫を保護したのをきっかけに、何かしようと考えたのですが、まず家の周りの外にいる猫が嫌われないように、積極的に糞を探して拾うでした。
    いつも糞をとるためのグッズを持ち歩き知らない犬や猫の糞を拾うのは、取り立てて何かの活動というわけではありませんが、、まず一歩だと思うのです。
    犬や猫が酷い目に合わない社会を願う大きな活動は難しいですが、自分が好きな犬や猫が嫌われないようにするのも、些細ですが何もしないよりはやってみる価値があると思いました。
    ハハ様の仰っている何か自分にも出来るアクションは、きっと大げさな事ではなくて、多くの人が小さな行動をとってくれたら大きなパワーになるという事だと思います。
    何も出来ないのではなくて、何もしない事が寂しいという事だと思います。
    私も世間は、祈るだけ思うだけでは何も変わらないと思っています。
    どんな人にも必ず出来る事があると思っています。
    皆がそれぞれに関心を持って、些細な事を気にかけて動いてみるのは難しい事ではないと思います。
    思っていても動けない人にでも出来る事は必ずあると思います。
    人が聞いたらそんなの活動じゃないと言われても、無関心よりはいいと思います。
    遠くの大きな事ではなくて、身近な事でも短時間でもお金を掛けなくても、出来る事はあると思います。
    直接に犬や猫を保護できなくても、自分ひとりでも始められる事があると思います。
    ハハ様は、出来ないと言わずに出来る事を探してくれたらいいなと仰っているんだと思います。探さずに出来ないと決めつけるのは、もったいないと思います。

    • anny703

      豆様
      豆様は糞拾いからはじめて今超猫を仰山保護していますよね(笑)。本当に謙虚な方だからそれをひけらかさないけれど私はよくわかっています。
      私は行動の大小は関係ないし、祈りについても自分が祈るから肯定的です。目に見えないなにかはある気がします。
      でもいちいちキーボードを叩いて「何もできませんが祈っています」は私には不要です。どうして何もできないのでしょうか? 何かできることはないんでしょうか?
      なにもできないと言い切る方からの祈りは私には届かず、むしろ士気が下がりむなしくなるばかりです。私はスーパーマンが犬猫の状況を改善していくとは思っていません。ひとりひとりがささやかなことをするべきだと思っています。
      それは糞拾いであってもいいでしょう(私もしてます)。TNRでもいいでしょう。署名を集める活動でもいいでしょう。保護でもいいでしょう。譲渡でもいいでしょう。そしてミルクボランティアでもいいし、里親になることでもいいと思います。嘆願書を集めることも行動です。祈りのために合わせた両手を広げ、何かできることを探す人は美しい。私の感性ですけどね。そしてそれを終えた後にまた手を合わせればいいのです。
      シンプルな話ですよね。

      • 祈りは成すべき事をした後に、祈るものだと思います。
        私は、決して他人にはすすめませんが、信仰する宗教をもっています。それは生活の一部だからです。
        キリスト教の宗派にもよりますが、大人は収入の10%を神に寄付します。子供もお小遣いの中から寄付します。信仰は神との契約です。
        神の教えに従い、神との約束に従えなかった自分を悔い改め許しをこう為に祈ります。
        お願いや神のご加護を得るために祈るのは、
        自分の成すべき事をした者が祈るのです。
        どの宗教も成すべき事があると思いますが、
        信仰や信念や哲学は多種多様ですから、ここで書く事ではないと思いますので、詳しくは書きませんが、神仏あらゆる宗教は寄付やお賽銭などあったり、何も出せない場合は宗教的ボランティアを行います。
        宗教でさえも祈るだけではないのです。
        祈るだけでは、神にさえも声は届きません。
        宗教的祈りは、厳格であり自分の都合だけで
        祈ったりはしません。
        教えに従い生活し神との契約を守り、自分や他者の為に祈るのです。
        お寺や神社もただお祈りには、行きませんよね。いくらかでもお賽銭を入れて、お願いするのだと思います。
        私は祈るだけと言う言葉が、信用できません。

        • anny703

          豆様
          ほう。よくわかりました。確かにそうですね。
          私はね、若い芽はだれかが育てたほうがいいと思うんですよ。ゆるくゆとり教育? みたいな形でね。
          だから10代の方が「今はなんもできていませんが祈ってます」という言葉をかけてくれたらね、私は素直に心から受け止めることができるし、笑顔でお礼を言えます。でも私もいい年齢ですから、大人たちの言う「なにもできません(なにもしません)が祈っています」は信用していないのです。私などでそういう方を育てられるとも思いません。いろんな方を見てきました。
          言動不一致が苦手なタイプです。
          私も実際さぶのことを多くの方に祈ってもらいましたし、私も友人や知人の犬猫たちの病気の際は祈っています。
          その子たちを病院に連れて行くなどの実際の行動はなにもしていないけれど祈っています。
          そういう種類の祈りと、なんもしないよ、でもいい社会になるよう祈るね、の祈りは別物であり
          そっちのほうを書きたかったのですが、私の語彙力、表現力不足で一部の方の誤解を招いたかもしれません。
          以後気をつけて発言していきたいと思います。

  • 匿名

    ずっと以前BBCで、
    科学的に説明できない現象の特集をやってました。
    そのなかで興味深かったのが「祈りの効力」

    怪我や疾患のある患者がマジックミラーの前に座り
    鏡の反対側で別の被験者が患部を凝視して痛みが和らぐように
    一日も早く完治するよう心を込めて祈ることを指示されます。

    結論から先に言うと、鏡の反対側で実際に誰かが
    心を込めて祈ると患部の治癒に明らかな向上が見られた!
    薬物臨床実験のプラセボと同じで反対側が無人だったり
    いても治癒を念じないと治癒に変化が認められなかった。

    また見ず知らずの実験参加者100人に毎日決まった時間に
    患者の写真を見ながら回復を祈ってもらう実験をしたところ、
    その患者は祈ってもらわなかった患者より若干回復が早かったと。

    実験がどこまで厳密に、かつ化学的に実施されたか不明だし
    データの捏造や人為操作の可能性も十分あるので
    この結果を鵜呑みにするわけではありませんが、
    縁だとか愛、運命とかを信じる私としては
    「無きにしも非ずだろうな」と思うのです。

    祈るだけで行動に移せない人は圧倒的に多い。
    実際に行動しているアンニイさんからすれば
    もどかしいしじれったいと感じることだらけでしょう。
    また祈りにどんな効用があろうと実際の行動に比べれば
    何千万分の一にも及ばないことも分かっています。
    しかし多種多様な事情があって行動できない、または
    行動を躊躇している人たちも多いはず。
    そうした人たちに「行動がすべて」と断言するのは
    表面的な条件で一括りにしてぴぃさんを門前払いした保護団体と
    大して変わらないように思うのですよ。
    個人の信念として標榜するのは構わないし、
    それで一発奮起して行動を起せた人がいたら万々歳ですが
    できない人の心も傷ついたのでは?

    祈りから入っても問題ないのでは?
    行動に移せれば、それはもう文句なく素晴らしい!
    でも祈りの効力を軽んじてもいけないと思うのです。

    気に障ったらごめんなさい。でも率直な気持ちです。
    これからも心からアンニイさんの活動、そして703号室の
    皆さんを心から応援しています(←100%の真実)

    • anny703

      匿名さま
      コメントありがとうございます(^-^)
      今出先の動物病院にて私は匿名さまのコメントを拝読し長文打ちが不慣れなiPhoneにて、返信を試みることにしました。よって思いをすべて書くのはむずかしいかもしれませんがよろしくお願いします。
      祈りがプラスかつ善意であること、私も本気で同感です❤️ なぜなら私も自分の信じるパワースポットや自宅や動物病院やあらゆる場所で祈るからです。
      きっとその実験も大きな目で見ればあながち間違いでもないでしょう! そう思います。
      では私の意見を聞いてください
      もしも外に傷を負った子猫がいたとします。10人が同時にその子猫を目撃したとします。だれもが手を合わせその子猫の回復と明るい未来を祈ったとしましょう。それでその子猫は本当に幸せになるのでしょうか?
      だれが保護し病院へ運び怪我を治してやらなければ、だれかが家にいれて家族にならなければ傷を負った子猫は死んでしまうでしょう。
      だれかが行動を起こさなければいけないのだと私は思います。
      祈りだけで済めば正直私はすごく楽です。お花を習ったりジムへ通ったりしたい。譲渡の責任からも逃れられる。
      でも祈りだけで傷を負った子猫がどうにもならないのを私は知っています
      自分の行動で解決してきたからです。
      祈る気持ちを否定してはいません
      プラス小さな一つでも行動ができればその子猫が救われると言いたいです。
      長くなるのでいったん切りますね!
      続きはすぐ書きます

    • anny703

      続きです
      ではどうしたら傷を負った子猫を救うことができるでしょう? ひとりがすべてを背負うのは勇気が要ります。
      もし10人の中に車を出せる方がいたらその方が車を出し
      もし10人の中に動物病院を知ってる方がいたらそこへ道案内し
      もし10人で2000円ずつ出し合ったら治療費をまかなうことができるかもしれません。あるいはお金に余裕のある方が善意で全額負担してもいいでしょう。
      そしてみんなの空いている時間を少しずつでも出し合って飼ってくれそうな方を探したらその子の未来は安全で開かれたものになるでしょう。
      私が行動しているからといって、私は自分の行動をひけらかしているわけではありません。本文に書いた通り行動の大小は関係ありません。
      行動を躊躇する方は行動を起こすべきで
      事情があって保護できない方は1匹のTNRならできるかもしれません。
      安い病院を探せばオスなら3000円でできます。3000円がその方にとって大きな負担になるなら同士を集め、カンパを出し合ってもいいでしょう。
      私が言いたいのは
      行動を起こすことこそが最重要だということで中身の大小は一切関係ないってことなんです
      わかって〜〜❤️
      そしていつも応援ありがとうございます(^-^) Love

      • 匿名

        アンニイさんの反論(追加説明?)も
        豆さんのご意見も十分に理解しますし同感です。
        同じ意見同じ観点を持つ人間同士があれこれ討論しているような
        気もしてくるのですが、私が言わんとしていることは
        「祈ること」もある種の「行動」ではないか?ということです。

        豆さんのように明敏な方は、「糞を拾う」という
        小規模でも有効かつ有益な「行動」を思いつかれました。
        素晴らしいです。誰にでも思いつけるようでも
        なかなかできないことです(『コロンブスの卵』ですね)

        糞拾いでなくても生ゴミを漁っている野良を見かけたら
        苦情が出ないように後始末をするとか、
        TNRをやっているボランティアに知らせるとか
        救命や保護といった「行動」と比較すれば
        取るに足らないことであっても祈るだけよりマシだと。
        その論理もよく理解しているつもりです。

        しかしネットで多くの意見やコメントを読む限り
        「行動」の定義に「線引き」が存在するようにみえます。
        例えば、避妊手術をしてない野良猫への餌やり。
        ご本人は善行と思い込んでいても避妊手術を施さない限り
        悪循環を生む迷惑行為ですよね?
        それを指摘されてもなおかつ強行する人は問題ですが、
        大半の人は説明すれば分かってくれると考えます。

        ですから今は「祈るだけ」の人であっても
        豆さんのように「糞拾い」から始められる人はいるかもしれない。
        あるいは虐待ネグレクトを見て誰かに相談できるかもしれない。
        困った餌やりさんに根気良く避妊の必要性を説明できるかもしれない。

        そうした小さな一歩も「行動」だと思うのですね。
        いきなり救命活動や保護活動への参入は一般人には難しすぎる。
        しかも救命や保護、TNRだけが「行動」であると見なされがち。
        そして「祈るだけじゃダメ!」と言われてめげてしまう。
        傷ついてスゴスゴと祈ることすら止めてしまうかもしれない。

        そうではなくて、「糞拾い」や生ゴミ掃除もるよ、と。
        迷惑な餌やりへの説明や多頭飼育崩壊の相談、
        シェルターでのボランティアもあるよと言ってあげるほうが
        より効果的だし親切ではないのか?という話です。

        このへんは個人個人の考え方なので平行線かもしれませんね。
        でも私は祈りも行動の一端として認めるべきだ考えます。

      • 匿名

        続きです。長々とすみません。
        同サイドの人間同士で討論しても不毛ですから
        これで止めたいと思いますが、もうひとつだけ。

        欧米、ま、キリスト教徒に限るのかもしれませんが
        子供たちは幼い頃から寝る前に「祈る」習慣を身につけます。
        その日あったことを神様に報告して反省することがあれば
        神様の許しを乞う。お願いがあれば叶うように祈る。

        友人の子供たちはまだ満足に言葉が話せない頃から
        健気に手を合わせて真剣に神様に祈りを捧げていましたが、
        いつの頃からか毎晩野良犬や野良猫がお腹一杯食べられるように
        暖かい寝床で安全に眠れるようにと祈るようになりました。
        幼稚園に通うようになったらベークセールで
        クッキーを焼いて(母親が焼くのを手伝っただけですが)
        売上金をシェルターに寄付するようになりました。
        ティーンエージャーになってからも動物権利擁護運動だけでなく
        条例改正を望む陳情書への署名運動をするようになりました。
        これなどは「祈り」が「行動」に繋がっていった好例ですね。

        子供たちが動物たちの安全や健康、幸福を祈るだけであっても
        「祈るだけじゃダメ!」という人は多くないのでは?
        子供たちの中にも例外的に聡明で行動力のある子はいます。
        そうした子は自分で「祈るだけじゃダメだ」と気づいて
        友人の子供たちのように自然に次なる行動へと繋げていきます。
        でも繋げない、あるいは繋げられない子供たちに
        「祈るだけじゃダメ!」はちょっと酷過ぎるように思うのです。

        私は「祈り」は「行動の種」だと思います。
        そうした祈りや想いがまずあってこその行動だと。
        スクスクと育っていく種もあるでしょう。
        育たず芽も出さないで枯れる種もあるかもしれない。
        しかし、それはそれで認めてあげてほしい。
        可能なら水を差すなり肥料をあげるなり
        その種を育てる手助けをしてあげて欲しいとそう強く願います。

        長くなってごめんなさい。もうこれで最後にしますね。
        ほたるちゃんが元気で幸せに暮らしていること、
        自分のように嬉しく、さぶさんが無事に回復しつつあること、
        ナナちゃんも治療がうまくいっていることも心から喜んでいます。
        アンニイさんとチチさんの努力の賜物ですね。
        703号室に安寧な日々が続きますよう心から祈っています。

        • anny703

          匿名様
          何度もありがとうございます。子どもたちに祈るだけではだめと切り捨てたことは一度もありません。子供は非力だから祈りだけで充分です。
          ちょっと疲れてしまったので簡単に言いますね。
          祈るだけなら心でいくらでも祈ればいいですよね。祈ればいいんですよ。祈る行為を否定した覚えはありません。私も超祈ってますから。
          でも本文よく読んでくださいよ。
          「何もできませんが、祈っています」
          祈っていますの前になんて書いてありますか?
          私はなんて書いたのでしょう?
          なにもできないけれど、って書いています。
          ではそれを読んだ私の気持ちは考えたことはありますか?
          垣根を作っているのはどちらでしょうか?
          「アンニイさんはすごい。尊敬します」って言われたら私は素直にうれしいです。でもそのあとに、アンニイさんはすごい、尊敬します、私には何もできません、って言われたら悲しいのです。
          わかっていただけなくてもいいんです。
          なにもできないってことを先に言ってしまうのはどうしてですか?
          祈るだけなら心の中でそっとやってくださいよ。
          「何もできませんが」は要りません。寝たきりのお年寄り、子供たち、重病の方は例外です。でもそれ以外のほとんどの方はなにかができるんです。行動の大小も私は関係ないって言いました。言いましたよね?
          祈るだけで何もできませんと言い切る人を山ほど見てきました。客観的に見てできることがあるのにもかかわらずです。
          そのコメントを私は山ほどもらい、私の知り合いや保護活動している方にもそういうコメントをその方は山ほど送っています。いつも「なにもできませんが祈っています」です。いつもいつまでたってもです。
          祈りは純粋ですばらしい。でも祈っていると書いて何もしない免罪符にしないでほしいです。
          それが私の言いたいことです。非公開希望のコメントも拝見しました。
          がんばっている方の背中を押してきたつもりです。
          だからこそもう一度言います。私はだれも切り捨てていません。
          「誰にでもできることがあります。大小は関係ありませんがんばりましょう」と言いたいです。

  • シェリー

    私が2猫の里親になり、703号室ブログを読み始めて1年がすぎました。
    今の自分にできることをやってみようと思い、超初歩的ですがTNRを実施しました。2匹だけですけどね(汗)
    自宅から少し離れた場所だったので、本当に野良猫なのか、えさやりする人の有無、捕獲協力のお願いなどいろいろ手間取り…自分の要領の悪さを恥ずかしく思いながら実践。なんとか寒くなる前に腹の毛がはえそろいました。
    後日様子をみにいくと、すごいけんまくで2匹に威嚇されました(笑)
    行動することは本当に難しいですね。それでも誰かがやらないと不幸の連鎖がなくなりません。引き続き、地味に動いてみようと思っています。

    • anny703

      シェリーさま
      シェリー様の行動を拝読し、私は勇気をもらうことができました。本当に素晴らしいですね。
      TNRは有意義ですね。しかも2匹も!!
      ご自身でも2猫の里親になり、これ以上ないほどご自身にできることをされていると思います。
      地味ではないです。むしろ派手です(笑)。
      でもお互い身は一つ。お金も有限です。
      できることしかできないので、できることを少しだけやれるような感じで生きていきたいですね。
      うちも闘病レギュラーメンバーのせいにするわけではありませんが、昔よりキャパの範囲が狭まりました。
      でも自分にできることを自問し、絶えずトライしていきたいです。少しだけだったとしても。

      • シェリー

        お金は有限ですよね。
        私も最初は野良猫の存在をしらなくて、里子たちの故郷に募金するつもりで畑の不揃いな野菜を直売所で売っていたんですよ~。
        以前は処分していたんですが、これまた地味な金策ですよね(笑)
        捕獲箱を持っていないので、猫をエサで釣って虫取り網で捕まえました。
        35歳オーバーのオバハンが網をふりまわしていたため、周辺の方に助けてもらって捕獲(はずかしや)
        自分で捕獲を体験して、改めて譲渡活動をされる方はすごい!と思いました。

        • anny703

          シェリー様
          そうですね。保護活動をしている方はみんなすごいですね。私も尊敬の眼差しで見ています。
          そしてお金がまあまあある時期はいいけれど、カツカツの時期の金策はきついですよね。
          それも体験済みです^^; 
          でも誰かがやらなければ理想社会は机上の空論だけで終わってしまうので誰かが行動する必要があるのだと思うのです。
          私はその誰かのひとりでありたいと思っています。
          シェリー様もですよね。お互いできる範囲でがんばりましょう。

  • REI

    私もアンニイさんに同感です。祈ることで解決できたらどんなにいいか。自分のことを祈るときは特にそう思います。お願いをするとき、どうしようもなく助けを乞うときは、私もアンニイさんと同じく、感謝の気持ちを先に、後にと念じます。
    こうすると気持ちが落ち着き、自然と勇気と知恵ともうひとつ後押ししてもらえた気がするんです。
    つらつらと書き連ねてしまいましたが、自分以外の方のことを願うことも私は好きです。自己満でしかないけど、素敵なことだなと。さぶちゃんの回復を願っていますし、703号室のみんなの健康も祈っています。

    • anny703

      REIさま
      さぶのために祈ってくれてありがとうございます。私にもそういう気持ちがあります。卒業生が病気になったり、知っている方の犬猫たちが病気になったり、本当に心から祈る気持ちで回復を願っています。
      私が言いたいのは、保護活動に於いて祈るだけではなかなか前に進むことができないということで、それぞれが持つアクションの大きさの差はあれど、もう1歩だけ踏み出していただける方が増えればいいなあということです。
      祈る気持ち、感謝する気持ち、行動する気持ち、この3セットが束になったらきっと素晴らしい世界になりますね。

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