すべては一枚のチラシからはじまった。
手紙を添えてそれを夫妻に送ったとき、女にはほんの小さな企みがあった。祈りもあった。けれど、その時点では、まさかこんなことが起ろうとは夢にも思わなかった……。
夫妻は二日目の昼に会場へ現れた。チラシを送りつけた女とその夫と約一か月ぶりの再会の挨拶を交わすと、二人は会場のあちらこちらに目を配らせた。
ゴミのように捨てられた犬猫たちのパネル、救われたわずかな命と新しい家族の写真、並べられたケージの中で良縁を待つ犬、机上に並ぶ売り物の数々……。そう。ここは「ONE!ひとつきりの命たち」というチャリティイベントが開催されている会場である。
突如声をあげたのは、奥さんの方だった。
「あああ! あの子、ほらあの写真の子、幸ちゃんにそっくり!!」
「え? どれ?」
「上段の左から二番目の……」
「本当だ……」
気がつくと、ご主人は「保護犬の家族希望のアンケート用紙」に必要事項を記入していた。
女は目を見張った。そして口をポカンと開け、まぬけのようにその場に佇んだ。
それもそのはず。
つい一か月前、夫妻の自宅を訪ねた時、ご主人は女にこう言ったのだ。
「もう、犬は飼いません。……いや、飼うかもしれません。けれどそれはずっと先のことなんです。多分、自分たちが定年を迎える頃の話になるでしょう。幸多 と暮らして幸せでした。けれど、幸多の方はどうだったのか……。幸多に留守番をさせてしまったし、幸多の生活に制限をもうけてしまった。そもそも、自分た ちは犬を幸せにできるのか……」
女は慌てて返した。
「どうして? 幸ちゃんは幸せでした。そんなの、そうに決まってます。お二人は犬と暮らすべきです。勿論、今すぐにとは言いません。お節介のようですが、 私はお二人だからこそ、犬と暮らして欲しいのです。誰にでも犬を飼ってほしいと勧めている訳ではありません。実際、この人には飼ってほしくないな、と思う こともしばしばです。けれどお二人と暮らす犬は絶対に幸せになる、それを幸ちゃんが証明してくれた気がするんです」
「新しい犬を幸多以上に愛せるとは思えません」
「幸ちゃんのことをどれほど思ってくださっていたのか、私と夫には痛いほどよく分かります。だから、無理にとは言いません。けれどお二人なら、きっと幸ちゃん同様、新しく家族として加わった子を大切に思うはずです。いつか……」
「お前、いい加減にしろ。迷惑だし、しつこいぞ」
無我夢中でしゃべりつづけた女は、夫に遮られ、ハッと我に返った。
「ごめんなさい……」
~~~~~
「われわれのマンションには厳しい規定があります。体長が50cmを超える犬はどうしても飼えないことになっていて。ララちゃんはどうでしょうか? 50cm未満でしょうか?」
その場を担当するボランティアの女性(女の友人)に質問をするご主人の姿はまるであの時のよう。
「前輝くん(幸多)は50cm未満でしょうか?」
幸多を迎え入れる前、夫妻が唯一気にしていた点だ。
女はドキドキしながらメジャーを握りしめた一年半前を思い出していた。
「ちょっと待って。……49cm。ほら! 見てください。前輝(幸多)は49cmです」
「あああ、良かった! じゃあ、ぼくたちはこの子と暮らせますね」
「ぜひこの子をよろしくお願いします」
「はい。大切にします」
“大切にします”
その言葉通り、家族として迎え入れられてから天国へ旅立つまで、殆どの時間が癌との闘いだった幸多を支え続けた夫妻。頑張り屋の幸多が苦しい日々を笑顔で乗り切ったのは、二人の愛情があってこそのこと。
でしゃばりたい気持ちをぐっとこらえて、ボランティアの女性にやり取りをお願いした女の胸には、小さな希望が宿った。
どうかシェルターでご縁を待つ上段の左から二番目の写真の“ララちゃん”が、50cm未満でありますように……。
数週間後、女は友人であるボランティアの女性に連絡を取った。
「ララちゃんの件、どうなった? あのご夫妻との話は進んでる?」
「残念だけど、ダメだった。ララちゃん、シェルターで測ってもらったら、体長が60cmだったみたいだから。サイズの問題で流れちゃった」
「え……」
女は深いため息をついた。
ああ、ダメか……。
→つづく→
かつくん「出た。つづくって……。
“女”ってもしや、ハハのこと? だって、それしかあり得ないよね。
でしゃばりでまぬけの女って言ったらぼくには他に思いつかないもの。あ、リルもか。
ハハの本、それでも人を愛する犬をよろしく!
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