その猫

※ブログを連続更新しています。

(web日記としての記録、及び個人の感想)

~自分にとっての3.11~

原発付近や被災地となった場所はとてつもなく甚大な被害を受け、私は胸をバクバクさせながら悲しい日々を過ごしました。日本が壊れていく…どうしよう、と。

「被災地に比べたら自分なんか……」


という遠慮を持ちつづけ、やり場のない気持ちを抱えていたのも事実です。

あの日私は長年少しずつ集めていた食器がほとんど割れ、家中がガラスだらけになりました。

 

 

リサイクルショップをまわって入手したもの。アンティークショップで偶然出会えた一点もの。それらは私にとって貴重な財産でした。

 

 

余震の恐怖の中、ひとり粉々のガラスを片づけ、保護犬猫たちを一部屋に集め、彼らの安全のことばかりを考えていました。彼らを生かすことを考えていました。

 

 

キャパと責任の重さとの対峙。守る手は私の一本の右手と一本の左手だけ。

 

 

(チチは会社にいて身動きが取れなかったのです)

 

 

頭数の多さに私自身が押しつぶされそうでした。余裕をもって行動すべきだと痛感したのです。何ごとにも「余白」が必要だと。ぎっしりではいけないんだと。

 

 

震災のあとは震災で感じた恐怖を誰かに話すことを恐れていました。

 

 

「あなたなんか、まだいいわよ! もっと大変な人がいるのよ」

 

 

そう笑われるのがわかっていたから。

 

 

でも、批判を覚悟で本音を書かせてもらうと、各々が自分の人生を生きている限り、「不幸の大小」はほかと比較できないし、すべきではなかったのです。

 

 

私の味わった苦悩に周囲から自粛を求められる空気がつらかった。息が詰まってしまう。

 

 

私はあれ以来ほとんどTVをつけなくなりました。うまく言えないのですが、「モード」や「風潮」や「こうあるべき」に興味が完全に失せてしまったのです。

 

 

もし、当時、私の隣に家が全壊した方がいたとして、あるいは、ケガをした方がいたとして、そこにおにぎりがひとつしかないとしたら……私はひとつしかないおにぎりをその方々に譲ります。お腹が減っていたとしても、潔くおにぎりをあきらめます。

 

 

しかし、自分の行動の全てを自分で選択したいのです。

 

 

ほかの人から「そのおにぎりを食べる資格があなたにはない。より困っている人にあげなさい」と干渉される筋合いはありません。

 

 

善意ってなんですかね?

 

 

押しつけられるものではなく、自分の内側から自然に湧き上がるものじゃないですか?

 

 

3.11の日にうちのマンションの下でガクガク震えていたノラ猫の姿を私は忘れません。あの怯んだ目を、今でも思い出します。まちがいなく、その猫は私より弱者でした。無力な存在を近くに見つけて、いても立ってもいられませんでした。

 

 

けれど先述のとおり、自分の家の犬猫たちのことだけで精一杯になり、その猫をどうすることもできませんでした。私はその猫を見捨てることしかできませんでした。しかしだからこそ、近いうちに迎えに行こう、保護しようと自分に誓ったのです。

 

 

猫のためではなく、自分のために。

 

 

日常を取り戻してから間もなく、縁あって私はその猫をスカウトしました。

 

 

その猫と暮らし、その猫を終の棲家に見送ったあと、私の中の3.11に、ほんの小さな、ペン先でちょんとつけた点くらいの大きさのピリオドが打てました。

 

 

1日遅れましたが、被害に遭われた方に改めてお見舞い申し上げます。

 

 

私の信頼する里親さん宅で腹出して寝ているのが、その猫「いっきゅう」です。

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つらつらと失礼しました。

 

 

LOVE

 

 

 

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